MEGAMIプロデューサー 関本典子 

出身地

埼玉県さいたま市

どんな家庭で育ったか

3人姉妹の3番目、9人家族。
9人は、両親、祖父母、叔父2人、姉2人と私。

幼少時代は?

おしゃべり大好き。すばしっこくて活発。
姉のあとをくっついて回っていました。 

会社人間の父と、9人家族を支えいつも忙しくて大変そうな母。
2歳上の姉に対する劣等感もあり。(頭でも、口でも、力でも敵わない・・・)

素直な感情表現ができずに、やや荒れ気味の小学生時代を過ごしました。

学生時代は?

中学高校時代はテニス、テニス、テニス。部活動の思い出ばかり。
中学3年生の時に軟式テニスで関東大会出場を果たしました。

高校時代には部長を任されたものの、一人で突っ走ってしまう。
部員の気持ちに寄り添うことができず、苦い思いを経験しました。

高校卒業後は都内の大学に進学。
家政学部服装学科でひたすら課題製作をしながら4年間を過ごします。

長期の休みは、都会の人混みから逃げるように、山小屋や温泉旅館でアルバイト。
知らない土地への憧れと好奇心。この頃から現実逃避の癖あったようです。

【人生の転機➀ 1996年】

結婚は26歳のとき。福島県大熊町の梨農家の長男と結婚。
周りの心配をよそに、埼玉から福島へ。未知の世界に飛び込みました。

田舎での暮らしも農業も初めて。
家族や周りの人は都会から嫁に来た私のことを、「よぐぎたなぁ」と歓迎してくれました。

関東平野のど真ん中。海ナシ県で育った私には、福島の空も海も山々も、全てが美しく見えます。
海からお日様がのぼり、山に夕陽が沈む。空には満点の星。

子育てにも絶好のロケーションです。
3人の子どもに恵まれ、子ども達のお蔭で活動範囲が広がりました。

「関本さんちのお嫁さん」から「○○ちゃんのお母さん」へ。
そこからさらに「のりちゃん」と呼ばれるようになり、私にも自分の社会ができてきました。

知らない土地で生きるということ。
プライベートも一緒の自営業。
子育てにおける義父母とのあれこれ。

農家の嫁としての生活は、正直キツイなと思うこともありました。
それでも「自分で選択した道だから」と、なんとか踏ん張ります!

梨を栽培している夫の近くで「消費者に作り手の想いを伝える」という作業が楽しくて
農業経営のなかに自分らしさを取り入れ、仕事にもやりがいを感じていました。

【人生の転機② 2011年】

2011年3月11日。大熊町での生活は突然終わりを告げます。

東日本大震災後の原子力発電所事故。
福島第一原発の立地町である大熊町は全町避難を強いられました。

農業を生業とする者にとって、農地を奪われるということは何を意味するのか。

結婚して15年目の出来事。
生きる土台がすっぽりと無くなり無力感を味わいました。

自分の存在意義が感じられないまま
今は「子ども達のために生きる」と心に決めて2年間の避難生活を送ります。

「俺はもう一度梨を作る」
避難当初から再び梨を作ると決めた夫。2013年春、家族で千葉県に移住しました。

被災地の希望となった夫の再起。
天職である梨づくりが出来る喜びと、自身のプライドをかけて、夫は農業に取り組んでいたのだと思います。

【人生の転機③ 2017年】

千葉県に移住して5年目の夏、夫が病気で亡くなりました。
わずかな闘病生活で55年の人生を閉じた夫が、命に代えて伝えたかったことは何か。

もっとしてあげたかったこと。一緒にしたかったこと。
伝えたかった言葉。聴きたかった言葉。
こうすればよかったのだろうか。あれは間違いだったのだろうか。

後悔の念に押しつぶされそうになりながらも、自分と向き合い、様々な学びをしました。

2020年1月 はじまり

夫への感情に変化が訪れます。

「亡くなった今でも、こんな風に相手のことを想える。そんな人と出会えたなんて、私って幸せだなぁ」
と思いました。

そして、夫に対しても
「亡くなってからも、こんなに思われているなんて、絶対幸せに違いない!」と確信できたのです。

亡くなった夫が幸せであると思えたことで、様々な思いが「感謝」に変ってきました。

そして私は、人生のテーマを「命の大切さパートナーシップの重要性を伝えること」に決めました。

2023年3月 いよいよ